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横浜地方裁判所 平成4年(わ)1172号 判決

主文

被告人を懲役二年に処する。

この裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(事実の経過)

一  被告人は、昭和五八年三月東海大学医学部を卒業し、翌五九年六月に医師国家試験に合格して医師免許を取得し、続いて東海大学医学部付属病院に研修医として勤め、平成元年三月研修医の勤めが終了すると、同大学医学部助手に採用されて、医学部内科学四教室に所属し、同時に神奈川県湯可原町の湯可原中央温泉病院に出向することとなり、同病院で二年間勤務した後、平成三年四月一日付で右内科学四教室に戻り、同大学付属病院で勤務することとなった。

二  B(昭和八年三月三〇日生)は、長年工場で旋盤工として働き、家族として妻C(昭和九年二月二六日生)及び長男D(昭和三三年五月一〇日生)がおり、Dは昭和六二年四月結婚して独立して生活していた。B(以下「患者」という。)は、平成二年三月東海大学医学部付属病院での人間ドックの検査で血液の異常が指摘され、同年四月二一日外来で同病院内科学四教室のE医師の診察を受けたところ、多発性骨髄腫の疑いを受け、病名確定のため同月二三日から同病院に入院し、E医師が主治医となり、同年五月九日多発性骨髄腫と確定診断された。多発性骨髄腫は、発症原因不明のがんの一種であり、現代医学では不治の病気とされており、根治的治療は不可能であり、病気の進行を遅らせるだけの治療しかできないものである。患者の主治医であるE医師は、右入院当日の四月二三日に妻のC(以下「妻」という。)に、白血病類似の多発性骨髄腫の疑いがある旨告げたが、妻はかなりのショックを受けた様子であり、さらに四月二七日には長男のD(以下「長男」という。)とその妻に対し、疑いのある多発性骨髄腫の病名と治療内容、予後の見通しなどを告げ、患者本人にも病名を告知することを相談したが、長男は患者に病名を告知しないことを強く希望し、また母親にも病気について詳しく話さないことを希望したので、患者には病名の告知がなされず、骨髄機能不全と告げられてそのまま経過し、一方長男はその後も病院へ通ってE医師と面談し、検査結果や治療内容について説明を受け、五月中旬ころにはE医師から長男とその妻に、確定診断された病名と今後の治療方針が告げられた。

ところで、患者が治療を受けていた東海大学医学部内科学四教室は、教授二名、助教授一名、右E医師ら講師六名、被告人ら助手六名、その他研修医や大学院生らが所属し、大学医学部では講議、研究等を担当し、付属病院では医師として外来患者と入院患者の診療を担当し、内科関係のうち白血病、多発性骨髄腫、悪性リンパ腫などの血液疾患、甲状腺疾患などの内分泌疾患、リウマチ、膠原病などを扱っており、講師や助手は主治医として四人から一〇人ほどの患者を受持ち、原則として一人の患者に二人以上の複数の主治医が付くことになっていた。

患者は、東海大学医学部付属病院に入院し続け、主治医のE医師等から抗がん剤の投与等の治療を受けたが、病気の進行が抑えられたことから平成二年六月二三日退院し、その後通院治療を受けながら職場に復帰したが、汎血球の減少など病状が進み、他の大学付属病院で診察を受けたりしたが、治療内容は変らないと説明を受け、汎血球減少が顕著となり病状が一層進行したため、同年一二月四日東海大学医学部付属病院に再入院した。入院後検査の結果、血小板の減少が著しく骨髄腫細胞の異常増殖が進むなど、病状が急速に進行していることが判明し、担当医にE医師の他に研修医のF医師も加わり、長男には病状が説明されて余命の推測も告げられ、各種抗がん剤の投与等の治療が行われたが、効果はなく病状の悪化は止められなかった。同年一二月半ばころから患者には、骨髄腫細胞による骨破壊、腰椎の圧迫骨折に基づく腰痛が生じ、同月下旬には強い腰痛を訴えるようになり、鎮痛座薬が投与され、長男には白血球と血小板が非常に少なく感染症や脳出血等で死亡するおそれがあり、厳しい状況である旨告げられた。平成三年一月一〇日から副作用の少ないスミフェロンを筋肉注射するインターフェロン療法に変えられ、汎血球減少が少なくなり腰痛も抑えられるなど、一時病状が安定したこともあったが、病状の進行は止められずになお悪化し、同年三月一八日ころから腎機能障害が表れ、同月二〇日ころからは骨破壊による高カルシウム血症の症状が出て、全身倦怠感、嘔吐が見られ、同月二二日から生理食塩水に抗生物質等が加えられた持続的点滴が開始された。E医師は、四月一日付をもって同病院輸血センター室長代理に就任することになったため、三月末ころ長男に対し、感染症、脳出血、腎不全等で四月には亡くなる可能性が大きいと告げ、長男から「四月中旬に自分の二人目の子供が生まれる予定だが、それまで持つのか。」と尋ねられて、「どうでしょうか。」と答え、同時に新しい医師が患者を担当することになる旨話をした。

患者の再入院後は、妻がほとんど毎日病院に赴いて患者の身辺の世話をし、長男は週二、三回病院を訪れて、患者に面会するとともに、週に一度はE医師やもう一人の担当医のF医師と面談し、患者の病状や治療内容等について詳しく説明を受け、血液検査の結果等をノートにメモし、あるいは医学関係の本を自分で読むなどして、薬の使用について医師に要望することもあった。妻は、長男から知らされないこともあって、患者の再入院後も患者の正確な病名や病気の内容を知らないまま過ごしていたが、平成三年三月下旬、知人から紹介されたアメリカの大学に勤める医師に、E医師の作成した患者の病状を記した書面で診断をしてもらったところ、初めて正確な病名と病状を知り、大きなショックを受けたりした。

三  被告人は平成三年四月一日付で東海大学医学部付属病院内科学四教室に戻ることとなったが、同日日中は前記湯河原中央温泉病院へ出向いて診療に当たり、夕方右付属病院へ赴くと、数名の患者の担当医を指示され、本件患者についてもE医師、F医師と共に担当を指示されたことから、医師記録等から患者の病状、治療経過等を把握し、病室へ行って担当医となったことの挨拶をし、さらに翌二日E医師から、患者の病状や治療経過、予後は一か月ほどと見込まれること、患者には家族の希望により病名を告知していないこと、家族の状況などの説明を受けた。被告人は、四月二日から四日にかけては、担当する他の重篤な患者の治療にほとんど当たり、本件患者の治療にはF医師が主に当たって、被告人は同医師から病状の報告を受けていた。

患者の病状は、腎機能障害や高カルシウム血症に一時改善が見られ、持続的点滴が一旦中止されたものの、四月五日から嘔吐や全身倦怠感が強まり、うつらうつらと眠る状態となり、腎機能障害と高カルシウム血症が表れたため持続的点滴が再開されたが、病状は悪化し、長男が七日夜、患者が血を吐いたとしてE医師やF医師の自宅に電話することがあった。この間、被告人は四月五日、、六日と他の患者の治療に忙殺されて、本件患者の診療にはF医師が当たり、さらに被告人は四月七日の日曜日には、同僚の医師から頼まれて茅ケ崎の診療所の夜間当直に当たり、翌八日は湯河原中央温泉病院へ出向いた。

四  四月八日以降について、患者の病状と治療状況、被告人の対応、妻と長男(以下両名を「家族」という。)の被告人及び病院関係者に対する言動等は、以下のとおりである。

1  四月八日

患者は、四月八日になると全身状態の悪化傾向が更に強まって、病室を大部屋から個室に移され、腎機能障害が悪化するとともに高カルシウム血症となり、点滴やフォーリーカテーテルを抜こうとする不穏行動や体動が出たため、手足を抑制帯で抑えられ、意識レベルは低下してぼんやりした状態となり、鎮静剤の投与が行われ、点滴によるカルシウムの洗い流しを試みても効果がないため、カルシウム値を下げるための血漿交換が行われた。

被告人は、同日午後六時ころ、前記湯河原中央温泉病院から付属病院へ戻り、F医師から報告を受け、血漿交換を終えた患者の様子を診察し、その後患者の病状を伝えるため当直の医師に連絡をしたところ、逆に交代してくれるよう頼まれたため、当直をすることとなり、夜半に二回ほど患者の様子を診て回った。

一方、E医師は、四月八日から一〇日まで学会出席のため不在であった。

2  四月九日

患者は、意識レベルは前日と余り変らず、ぼんやりして簡単な命令にしか応じない状態であり、しきりにフォーリーカテーテルを外そうとする不穏行動を示し、血漿交換は、血小板が非常に減少して出血のおそれがあるため、見合わせられた。

この日は教授回診の日であったが、F医師は、午前九時ころ妻と長男から、「患者は一晩中眠っていなかった。フォーリーカテーテルの痛みを訴えており、つらくて見ておれない。家族としては、血漿交換はもうしなくてよく、点滴とフォーリーカテーテルも抜いて、治療はやめてほしい。患者はみんな分かっているのです。治る病気ではないので治療する意味はなく、苦しめるようなことはしないで下さい。」と言われ、その直後に被告人もそれをF医師から聞き、また教授回診の際、F医師が家族から治療中止の申し出があったことを教授に伝えた。しかし、教授の説明もあって、教授回診後家族から、今朝の申し出は取り消したい旨F医師に話があり、被告人もそれを聞いて、家族の態度は変化するし、その動揺も激しいものと思った。

3  四月一〇日

患者は、時折不穏行動を示すことがあったが、血圧、呼吸、脈拍が安定し、病状は悪いものの安定し、意識レベルは呼んでも答えないようなやや下がった状態となり、入眠状態にあることが多かった。

午後六時半ころ妻と長男からF医師に、「治療を中止して欲しい。かわいそうなので、点滴もフォーリーカテーテルも外してほしい。」旨申し出があり、執ように中止を頼んで、説得してもなかなか納得せず、F医師が一時間ほど説得して、ようやく治療中止をしないことに落ち着いた。午後九時ころ妻からF医師の自宅に、睡眠薬の注射をしないことを約束したのにそれが破られたとして非常に感情的で怒っているような電話があり、F医師は家族への応対に困惑を感じ、自信が持てなくなった。

被告人は、この日一日中専ら他の担当する重篤な患者の治療に当たり、本件患者を診察することはなかった。

4  四月一一日

患者は、全体状況は前日と変わりなく、意識レベルはやや低くなって、東海大学付属病院の定める意識レベルで四(呼んでも答えないが、開眼や手を動かすなどの反応がみられる状態)あるいは四ないし三(呼べば返事をするが、簡単な命令にしか応じない状態)となり、被告人の診断では、予後は四、五日ないし一週間くらいであった。

午前九時ころF医師から被告人に、前日家族から治療中止の申し出があったことが伝えられ、さらに同医師から、前夜妻が感情的で怒ったような電話をしてきた旨の話があり、病室へ行った際の妻の態度にも険悪な雰囲気が感じられたことから、E医師も加わって三人で相談した結果、F医師は家族との応対はせずに裏方に回り、被告人が前面に出て治療と家族への応対に当たることとなった。またその際、治療方針としても危険を伴う血漿交換は行わず、腎機能障害や高カルシウム血症等に対してその都度対症療法を行ってゆくことが確認された。そこで被告人は、家族の意向がしばしば変わることから話し合いをしておこうと思い、午前九時三〇分ころ妻に対し、「今は確かに厳しい状態です。しかし、医師というものは可能性があれば少しでも治療を続けるのが当然であり、私も可能性を信じて治療をしているのですから、家族の方も頑張って下さい。治療をすべて中止すれば後で後悔することになりますよ。一応治療については今までどおり続けます。」旨話したところ、妻は、筋肉注射など患者に苦痛を与えることをするのには抵抗を示しつつも、従前どおりの治療を続けることを承知した。一方長男は、午後F医師から、治療と家族への応対には被告人が当たることになった旨告げられ、その際患者はどのくらいもつのか尋ね、F医師から一週間かもしれないと教えられた。被告人は、他の重篤な患者の治療に従事し、午後六時ころ長男に対して、「状況は厳しいです。何時亡くなってもおかしくない状態にあります。しかし、医師は可能性があると信じて治療していますので、最後まで頑張ります。家族の方も頑張ってください。」と話したところ、長男は、最後は自然な姿で死を迎えさせてやりたいと考え、「いよいよという時には点滴やフォーリーカテーテルなどは全て抜いて下さい。」と、患者の死期が迫ったときには、全ての治療を中止することを申し入れた。被告人は、死期が迫ったときでも、全ての治療を中止することは医師として行うべきでないと考えていたので、長男の申し入れを断り、治療を最後まで継続することが医師の務めであることなどを説明した。しかし、長男はなおも、「それでは、父が苦しまないようにして下さい。」と言って、死期が迫ったときには無意味な治療をやめ、苦痛なく安らかに死を迎えられるようにしてほしい旨希望したため、被告人も、家族の希望を入れて心肺蘇生術を施さない例が以前にもあったため、「いよいよ死を迎えたときには心肺蘇生はやめましょう。」と答えた。しかし、被告人は、また家族から治療の中止を申し出てくるのではないかと考え、この家族にとって患者は何なのか、こんなことがあってよいのかと悲しく思ったりした。

5  四月一二日

患者は、腎機能が悪化し、肺炎併発の疑いのため抗生物質の投与を始め、舌根沈下が見られるためエアウェイを装着し、意識レベルは低下して四ないし五(呼び掛けに全く反応しないが、疼痛刺激には反応する状態)であり、対光反射はあるが痛覚反応なしの状態となった。夜になり、患者の呼吸状態は悪くなり、深大性の呼吸となった。

この日は助教授回診の日であったが、妻から看護婦に、「インターフェロンも効いていないからやめて下さい。」と申し出があったため、被告人がインターフェロンの効果について説明し、納得を得た。

長男は、午後二時過ぎころ病院へ行き、患者に生れた長女の写真を見せたが、意識が全くなく、病状はますます悪くなっていると思い、夜には妻と長男が一緒に泊り込んで付添いに当たったが、患者は意識が全く無く、声を掛けても反応が無く、苦しそうな呼吸をして時々それが止まるようにも思われたため、長男は、患者に本当の病名を知らせず、治るからと嘘を言って闘病生活をさせてきたことが申し訳なく、患者に非常に気の毒なことをしてきたと思うようになった。

被告人は、この日はほとんど他の危篤状態の患者の治療に当たり、その患者が死亡したので、夜その病理解剖のための書類作りをし、一旦結婚記念日のため妻と外で食事をした後病院に戻り、翌午前三時過ぎころ帰宅した。

6  四月一三日

(1)患者は、午前二時ころ意識レベルは五ないし四で、呼吸は深大性であり、午前八時ころ呼吸が深大性からビオ様(いびきのような呼吸)となり、一時チェーンストークス様も表れたが、午後二時ころ意識レベル五で、舌根沈下が見られ、午後三時過ぎころ意識レベル六(疼痛刺激に対しても全く反応しない状態)であり、午後四時ころも意識レベルで対光反射なしの状態となり、午後六時も同じく意識レベル六であり、手指にわずかの軽度チアノーゼが表れ、午後八時には、意識レベル六であり、手指に軽度のチアノーゼが表れていた。

(2)朝を迎えて、前夜来泊り込みで付添いに当たっていた長男は、患者が苦しそうにしているとみじめでかわいそうであり、見ているのが辛くて堪らなくなり、患者の命もあと僅かであろうし、まもなく死亡するのであれば、息子としてしてやれることは、嫌がっている点滴やフォーリーカテーテル等を全て外して治療をやめ、苦しそうな状態から解放して自然に楽に死亡させてやることであり、そのために死期が多少早まってもかまわないではないか、母も看病で疲れ切っており、このままでは体を壊してしまうおそれがあるので、母のためにもむしろ死が早まった方がよいのではないか、と考えた。妻もまた、患者の苦しむ姿はみじめでかわいそうであり、最後くらい嫌がっている点滴やフォーリーカテーテルを外して苦しさから解放させてやりたい、そのために死期が多少早くなってもかまわないと考えた。そこで、二人は、話し合った結果、患者から点滴やフォーリーカテーテル等を外して治療を全面的に中止し、そのため多少死期が早まっても、患者が自然に楽に死を迎えるようにしてもらおうと決心した。

午前九時ころ、妻は、廊下で会ったE医師に思い詰めたように、「もう一週間も寝ずに付き添ってきたので疲れました。もう治らないのなら治療を全てやめてほしいのです。それをA(被告人)先生に話すつもりです。」旨話し、E医師は、「そうですか。」と答えた。

午前一〇時ころ、長男と妻は病室に来たG看護婦に、「やるだけのことはやったからもうよいです。自然の状態で死なせてあげたいので、点滴もフォーリーカテーテルも全部抜いてほしい。」と頼んだ。午前一一時ころ、G看護婦から右依頼の件を聞いて病室にやって来た被告人に、二人は、「点滴やフォーリーカテーテルを抜いてほしい。もうやるだけのことはやったので早く家に連れて帰りたい。これ以上父の苦しむ姿を見ていられないので、苦しみから解放させてやりたい。楽にしてやってほしい、十分考えた上でのことですから。」と強く要請した。被告人はそれに対し、点滴をやめるのは、栄養や水分の補給等をやめて患者の死期を早めることにつながるため、「そんなことはできません。医師として最後まで頑張るつもりです。」と説得したが、二人はなおも、「家族としてこれ以上見ておれない。私たちも疲れたし、患者もみんな分かっているのです。もうやるだけのことはやったので、早く家に連れて帰りたい。楽にしてやって下さい。」と迫り、被告人が、「治療をやめてくれというのは、患者の命を自由にすることであり、勝手すぎるのではないか。医師としては最後まで頑張らなければならない。」と説得しても、二人は、「もう十分考え話し合って決めたことですから、早く家に連れて帰りたい。これ以上辛くて見ていられない。楽にしてやって下さい。」と言い張り、一向に被告人の説得を聞き入れようとはしなかった。こうした家族と話し合い、その強固な態度を目の前にして、被告人は、一方では医者としては治療の中止はできないことであると思いながらも、他方では家族が、患者は末期状態で命もあと一日か二日であり、死期が多少早まっても、最後くらい患者の嫌がる点滴やフォーリーカテーテルを外して楽な自然の状態で死なせてやりたいという気持ちになるのも十分にわかり、それに、看病にも熱心で患者をいたわる気持ちが強い家族の頼みなら、患者の気持ちにそぐわないこともないのではないかとの思いが心をかすめたりするのであった。こうして、被告人は、医師としての使命を思う考えと家族の熱心な気持ちを思う考えとの間であれこれ悩んだ末、患者の意思に考えを及ぼさないではなかったものの、ともかく家族の強い希望があることからそれを入れて、患者の嫌がっているという点滴やフォーリーカテーテルを外すなど治療を中止し、患者が自然の死を迎えられるようにしてやり、そのため患者の死期が多少早まってもよいのではないかと決意するに至り、家族に「分かりました。」と返事した。被告人は、ナースステーションに戻り、病棟の看護責任者であるH看護婦に、「家族から治療を全てやめて欲しいと言われ、何度も説得したが、どうしても聞き入れてくれないので、治療を中止して、点滴、フォーリーカテーテルを外すことにしたから。」と話した。それを聞いたH看護婦が、「私も家族と話をしてみますから。」と言って病室へ行ったが、しばらくして戻って来て、「やはり治療を中止して欲しいと言われた。」と言ったので、被告人は、午前一一時二〇分ころG看護婦に、「Bさんの治療を全て中止する。点滴とフォーリーカテーテルを抜去し、痰引などもしなくてよい。」旨治療の全面的中止を指示し、与薬指示事項表に治療を全面的に中止する旨書き込み、看護婦のリーダーであるI看護婦にも、患者の治療を全て中止するので、点滴、フォーリーカテーテルを抜去し、除痰などもしないように指示した。G看護婦は、午後零時ころフォーリーカテーテルを、同零時半ころ点滴をそれぞれ患者から外した。

長男は、患者からフォーリーカテーテルと点滴が外されたことを確認し、夕方か夜には自然の状態で眠るように死亡するのではないかと思い、患者に付き添っていたが、患者がなおも荒い苦しそうないびきをかくような呼吸をしているのが気掛かりとなっていた。一方、妻は、長男に家に帰って休んでいるようにと勧められて、午後零時半ころ病院を出て一旦帰宅し、その後近所の美容院へ行くなどした後、家で休養していた。

(3)午後二時ころ、E医師は、病室へ行き、患者の点滴とフォーリーカテーテルが外され、治療が全面的に中止されたことを知り、驚いたものの、患者の命もあと一日か二日であり、治療を任せていた被告人が家族と話し合って決めたことならやむをえないことと思い、ナースステーションで被告人に、「点滴をやめたんだね。」と声を掛けた。それに対し被告人は、「何度も説得したが、家族から強く言われたので、中止した。」旨話し、E医師は、「仕方がないね。」と言うにとどまった。その後E医師は、翌日から京都で行われる学会出席のため、午後三時ころ病院を出て帰宅した。

午後三時ころ、被告人は、患者の様子を診ると、口にエアウェイが付けられ、心電図モニターの発信器が取り付けられており、意識レベルを試すと、患者は疼痛刺激に対して反応がなく、意識もなく、意識レベル六と判断され、いびきをかくような深い大きな呼吸をし、脈拍は頻脈であり、今日か明日の命ではないかと考えた。午後四時半ころ、被告人は、医局で内科学四教室の同じ助手であるJ医師と会い、「Bさんの治療をやめたよ。点滴も外したよ。」と言うと、J医師は、「これで家族も何も言わないだろう。」と答えたのであった。

(4)患者に付き添っていた長男は、患者が苦しそうな呼吸をしているため、苦しみを無くして静かに眠るように死亡させてやりたいと考え、被告人を呼びに行った。

午後五時半ころ、被告人は、長男に呼ばれて病室へ行くと、長男は、「苦しそうなのでエアウェイを取ってほしい。」と頼み、被告人が、エアウェイを外すと気道が舌で塞がれ呼吸ができなくなるおそれがあるため、「そんなことはできない。舌が下がって呼吸ができなくなるおそれがある。」と説明したが、長男はなおも、「とにかく見ているのがつらい。苦しそうな呼吸をしているので楽にして下さい。エアウェイを取って下さい。」と、エアウェイを外してくれるよう頼むのであった。長男のそうした依頼を聞いて、被告人は、長男は患者が死ぬことがあってもかまわないと思っているものと考え、すでに家族の希望を入れて治療を中止しているので、同じように希望するのならそれを受け入れてやろうと思い、午後五時四五分ころ患者からエアウェイを外してやった。その後被告人は、担当のK看護士に、長男の希望で患者からエアウェイを取り外したと話した。

(5) 長男は、患者に付き添って見守っていたが、依然として患者の苦しそうな呼吸が続くことから、もはやこれ以上苦しまないようにするためには早く息を引き取るようにしてもらった方がよいと考え、被告人を呼びに行った。

午後六時過ぎころ、被告人が病室へ行くと、長男は、「いびきを聞いているのがつらい、苦しそうで見ているのがつらい。楽にしてやって下さい。早く家に連れて帰りたいのです。」と頼んだ。被告人は、医師として積極的に患者の死期を早めるようなことはできないので、「いびきをしているということは生きているということであり、そんなことはできないです。」と強い調子で言ったが、長男は、「いびきを聞いているのがつらい。楽にしてやって下さい。早く家に連れて帰りたいのです。」と強く言い張り、被告人の説得を一向に聞こうとしなかった。そのため、被告人は、すでに治療を全て中止しているのに、さらに楽して欲しい、早く家に連れて帰りたいと頼むことは、苦しみを除くためにもはや早く患者に息を引き取るようにしてほしいという要望であると考えたが、長男のそうした要望を逸らすためには、ともかく深い呼吸を抑えていびきをできるだけ小さくしてやろうと思い、長男に「分かりました。」と答えた。それから被告人は、ナースステーションに戻り、どんな薬がいびきをかくような深い呼吸を抑えることができるか考えて、鎮静剤で呼吸抑制の副作用があるホリゾンを使用することとし、死期を早める影響があるかもしれないがいびきを抑えるため通常の二倍の量を使うことにして、K看護士にホリゾン二アンプル(四ミリリットル)を用意させた。そして、被告人は、午後六時一五分ころ病室において、患者の左腕にホリゾン二アンプル分を、通常二分間以上の時間を掛けてゆっくり注射するところを、約二〇秒ほどの時間で静脈注射をした。長男は、何も言わずに、被告人が注射をするところを側で見ており、患者は注射をしても、声を発することも体を動かすことも全く無かった。

(6)長男は、ホリゾンの注射後一時間近く経つのに、患者が相変らずいびきをかくような苦しそうな呼吸をしていることから、被告人を呼びにいった。

午後七時少し前ころ、被告人が病室へ行くと、長男は強い口調で、「いびきが止まらない。早く家に連れて帰りたい。」と言ったので、被告人は、患者の呼吸が浅くならずいびきも軽くならなかったため、長男が再び早く息を引き取るようにしてほしいと要望してきたことが分かったものの、これ以上呼吸抑制の副作用のある薬を使用すれば、呼吸停止を引き起こさせてしまうと思い、それ以上薬を使わないで済まそうと長男を説得した。しかし、長男は説得を聞き入れようとしないため、被告人は、再び呼吸を抑制していびきを小さくする薬を使用して、長男の早く息を引き取るようにしてほしいとの要望をもう一度逸らすこととした。そこで、被告人は、ナースステーションに戻り、ホリゾンと同じような呼吸抑制の副作用のある抗精神病薬であるセレネースを注射することとし、ホリゾンの場合よりもなお死期を早める影響があるかもしれないが、いびきを抑えるため通常の二倍の量を使用することとし、自分でセレネース二アンプル分(二ミリリットル)を注射器に入れて用意し、午後七時ころ病室で、患者の左腕に約一〇秒くらいで静脈注射をした。

長男は、注射の様子を見ていたが、注射後「あとどれくらいですか。」と尋ねると、被告人は、「若くて心臓が強いから、あと一、二時間かな。」と答えた。

(7)右セレネース注射後、被告人は、長男のこれ以上の要求を抑えようと思って、長男を病室外に呼んで、「あなたは薬を使って死なせてくれということを言っているが、そのようなことは法律上許されておらず、医者としてもそうしたことはできない。」旨強く言ったが、長男は、黙っているだけであった。

(8)長男は、セレネースの注射後一時間くらいすれば、患者は静かに死亡するだろうと思っていたところ、一時間経っても患者は相変らずいびきをかくような荒い苦しそうな呼吸をしていることから、被告人が意味のない注射を繰り返しただけで、患者が苦しがっているのにかえって何度も痛い思いをさせて、申し訳なくかわいそうにも思い、被告人に対し腹を立てた。そこで、長男は、今度こそ患者を苦しい思いから逃れさせるため確実に息を引き取らせ、今夜中に家に連れて帰ろうと決意し、被告人を呼ぶことにした。

被告人は、夕食をとるため車で外出し、車を走らせていたが、午後七時五〇分ころポケットベルが鳴ったため、食事をとらず病院へ引き返し、午後八時一〇分ころ病院へ着き、ナースステーションへ行った。そこに居た長男は、怒ったような顔をし腕組みをしたまま、「先生は何をやっているんですか。まだ息をしているじゃないですか。早く父を家に連れて帰りたい。どうしても今日中に家に連れて帰りたい。何とかして下さい。」と、激しい調子で被告人に迫った。被告人は、患者が息を引き取らずに苦しそうな様子をしているのが続くので、長男が腹を立て、今度こそすぐに息を引き取るようにしてほしいと要求していることが分かり、長男の迫る勢いもただならないものがあっため、逃れられないような気分を感じさせられる一方、そのようなことを医師に要求するとはどういうことであろうかと思い、複雑で重い気持ちを抱いて、何も答えずにナースステーションに入った。被告人は、どうしたらよいだろうかとあれこれ悩むうち、すでにホリゾンとセレネースを注射してまもなく死亡する可能性があり、長男の態度からしていくら拒んでも拒み切れないかもしれないなどと考え、肉体的にも精神的にも相当疲れ切っていて自己の立場に十分な思考を巡らすこともできずに、追い詰められたような心境から、長男の要求どおり患者にすぐに息を引き取らせてやろうと考えるに至った。そこで、被告人は、すぐに死亡させるには心臓に作用して心停止を起こすような薬剤を使用するのがよいと考え、ナースステーションの本棚から取り出してきた医薬品集の中の循環器関係の薬を見ていると、頻脈性不整脈に対して使われるワソランに気づき、徐脈、一過性心停止などの副作用があることからそれを使用することとしたが、患者は心臓が強いかもしれないので、ワソランを使用してもすぐには死亡しないかもしれないと思い、そのときには低カリウム血症の治療に使われ心臓伝導障害の副作用のある塩化カリウム製剤(以下「KCL」という。)を、通常は生理食塩等で希釈して点滴注射して使用するところ、希釈せずにそのまま静脈注射して使用することとした。そして、被告人は、その場にいたL看護婦に、「KCLとワソランは常備で置いてあるか。」と尋ねたところ、同看護婦は、「KCLはあるが、ワソランはありません。」と答え、それまでホリゾンやセレネースを注射したことを知っていたので、いくらか不審に思ったものの、被告人の要求に応じて、ワソランを薬剤部から引き出すための注射票を作成し、被告人に渡した。被告人は、その注射票を使って薬剤部からワソラン二アンプルを受け取り、またナースステーションの常備薬からKCL一アンプルを取り出した上、ワソランを通常の使用量の二倍である二アンプル分(四ミリリットル)を五ミリリットル用の注射器に入れ、KCLを一アンプル分(二〇ミリリットル)を二〇ミリリットル用の注射器に入れてそれぞれ準備し、それらの注射器を持って患者のいる病室に赴いた。患者はいびきをかくような深い大きな呼吸をしており、長男は病室の中におり、注射器を持って入ってきた被告人を黙って見ていた。

(罪となる事実)

被告人は、平成三年四月一三日午後八時三五分ころ、神奈川県伊勢原市下糟屋一四三番地所在の東海大学医学部付属病院の本館六階6B病棟一四号室に赴いて、多発性骨髄腫で入院していたB(当時五八歳)に対し、患者がすでに末期状態にあり死が迫っていたものの、苦しそうな呼吸をしている様子を見た長男から、その苦しそうな状態から解放してやるためにすぐに息を引き取らせるようにしてほしいと強く要請されて、患者に息を引き取らせることを決意し、殺意をもって、徐脈、一過性心停止等の副作用のある不整脈治療剤である塩酸ベラパミル製剤(商品名「ワソラン」注射液)の通常の二倍の使用量に当たる二アンプル四ミリリットルを患者の左腕に静脈注射をし、患者の脈拍等に変化もみられなかったことから、続いて、心臓伝導障害の副作用があり、希釈しないで使用すれば心停止を引き起こす作用のある塩化カリウム製剤(商品名「KCL」注射液)の一アンプル二〇ミリリットルを、希釈することなく患者の左腕に静脈注射をし、途中患者の心電図モニターに異常を発見したK看護士が、心電図モニターを病室に運んで来て、「心室細動が出ています。」と声を掛けたが、そのまま注射を続けて打ち終え、まもなく心電図モニターで心停止するのを確認し、心音や脈拍、瞳孔等を調べて、長男に「ご臨終です。」と告げ、よって、同日午後八時四六分ころ、右病室において、患者を急性高カリウム血症に基づく心停止により死亡させた。

(証拠)〈省略〉

(適用法令)

罰条 刑法一九九条(有期懲役刑選択)

酌量減軽 刑法六六条、七一条、六八条三号

刑の執行猶予 刑法二五条一項

訴訟費用の負担 刑事訴訟法一八一条一項本文

(裁判所の判断)

第一  はじめに

医学の進歩は、様々な病気を克服してきており、また将来とも克服してゆくといえる。しかしなお、現代医学の知識と技術をもってしても、治癒不可能な病気が存在することも現実である。そうした病気に冒された患者が、治療を継続しても間近に死を迎えざるを得なくなりながら、一方では医学の進歩は、そうした患者についても生命を維持し延命を図ることを可能とし、患者は治る見込みのないまま、時には苦痛に苦しみながら命を長らえるという事態が出現した。こうした事態の出現は、医療のあり方について再考をもたらし、病気への対応については患者自身が決定するという自己決定権の思想が高まり、生命の質を問う考えが出、治癒の見込みのない患者に対する末期医療のあり方が問題とされるようになった。そして、延命医療が進歩・普及するとともに、かえっていわゆる尊厳死あるいは自然死の思想が広がり、その延命医療の限度が問題とされ、さらにいわゆる安楽死についても、現代医療の現実の中で新たな思潮が生まれつつあるように思えるのである。

ところで、本件を現象面から見てみると、患者は現代医療では治癒不可能ながんの一種である多発性骨髄腫に冒され、予後数日という末期状態に至り、家族からの要請があって治療行為の中止が行われ、続いて苦痛緩和の措置がとられ、さらに苦痛から免れさせるため生命短縮の措置がとられているのであるが、治療中止から生命短縮の措置がとられるまでの過程が短時間のうちに進んだことや、問題とされた苦痛の内容などの点はともかく、本件のような措置をとることの選択を迫られる場面は、医療の現場において医療従事者が、不治の病に冒された死期が迫った末期患者を前に、少なからず対面することがあり得ると思われるのである。そこで本件が、末期医療の法的な限界、すなわち末期医療において医療従事者として許される行為の法的限界を考えさせる事案であり、本件で医師である被告人が患者に対して行った個々の行為を検証し、その法的許容性を検討することは、意義あることと考えられる。

のみならず本件において、医師である被告人が患者に対して行った個々の行為について、その法的許容性を検討することは、必要性があるといえる。というのは、一つには、本件で起訴の対象となっているのは、医師が末期患者を積極的に死に致した行為であるが、そうした医師の行為が、苦痛から解放するためのいわゆる積極的安楽死として許容されることがあるとしたら、後述するように、末期患者に対して苦痛を除去・緩和するため容認される医療上の他の手段が尽くされ、他に代替手段がなくなった場合にはじめて、許容されると考えられるので、被告人によって右の致死行為に及ぶ以前に患者に対して行われた行為が、どの程度容認されるものか検討する必要があるからである。さらに弁護人は、本件起訴の対象となっているワソラン及びKCLを注射して患者を死に致した行為は、終末医療の中での末期患者への対応の一つとして行われ、患者の意思を汲んだ家族の要請を受けて、基本的には延命治療を打ち切って安らかで自然の死を迎えさせてやることを目的とした、一連の行為の最後の行為として行われ、しかも現在では安楽死の対象には精神的苦痛を含める解釈もあり得るから、本件起訴の対象となっている行為の違法性ないし有責性の有無は、終末医療の実情に沿い、右の起訴行為のみならず全体的状況を踏まえて実質的な検討をし、その上で実質的違法性ないし可罰的違法性あるいは有責性があるかという観点から決せられるべきである、と主張する。そこで、そうした実質的違法性ないし可罰的違法性の有無あるいは有責性の有無を判断するには、被告人が本件患者と対面する中で、最終的に行った起訴の対象となっている行為のみならず、それに至るまでに行った行為についてもその適法性を点検し、全体として検討することが必要であると考えられるからである。

したがって以下、本件で被告人によって行われた治療行為の中止、及び外形的にはいわゆる安楽死に当たるとみられる行為について、それぞれその適法性を検討することとするが、まず、治療行為の中止及びいわゆる安楽死が許容されるための一般的要件をそれぞれ考察する。

第二  治療行為の中止の要件について

本件では、被告人によって治療行為の中止として、患者からの点滴及びフォーリーカテーテルの取り外し、さらにはエアウェイの除去がなされているが、こうした治療行為の中止が適法なものであったか否かを検討するため、一般論として末期患者に対する治療行為の中止の許容性について考えると、治癒不可能な病気におかされた患者が回復の見込みがなく、治療を続けても迫っている死を避けられないとき、なお延命のための治療を続けなければならないのか、あるいは意味のない延命治療を中止することが許されるか、というのが治療行為の中止の問題であり、無駄な延命治療を打ち切って自然な死を迎えることを望むいわゆる尊厳死の問題でもある。

こうした治療行為の中止は、意味のない治療を打ち切って人間としての尊厳性を保って自然な死を迎えたいという、患者の自己決定を尊重すべきであるとの患者の自己決定権の理論と、そうした意味のない治療行為までを行うことはもはや義務ではないとの医師の治療義務の限界を根拠に、一定の要件の下に許容されると考えられるのである。

そこで、治療行為の中止が許容されるための要件を考えてみる。

一  患者が治癒不可能な病気に冒され、回復の見込みがなく死が避けられない末期状態にあることが、まず必要である。

現在の医学の知識と技術をもってしても治癒不可能な病気に患者が罹り、回復の見込みがなく死を避けられない状態に至ってはじめて、治療行為の中止ということが許されると考えられる。それは、治療の中止が患者の自己決定権に由来するとはいえ、その権利は、死そのものを選ぶ権利、死ぬ権利を認めたものではなく、死の迎え方ないし死に至る過程についての選択権を認めたにすぎないと考えられ、また、治癒不可能な病気とはいえ治療義務の限界を安易に容認することはできず、早すぎる治療の中止を認めることは、生命軽視の一般的風潮をもたらす危険があるので、生命を救助することが不可能で死を避けられず、単に延命を図るだけの措置しかでしない状態になったときはじめて、そうした延命のための措置が、中止することが許されるか否かの検討の対象となると考えるべきであるからである。

こうした死の回避不可能の状態に至ったか否かは、医学的にも判断に困難を伴うと考えられるので、複数の医師による反復した診断によるのが望ましいということがいえる。また、この死の回避不可能な状態というのも、中止の対象となる行為との関係である程度相対的にとらえられるのであって、当該対象となる行為の死期への影響の程度によって、中止が認められる状態は相対的に決してよく、もし死に対する影響の少ない行為ならば、その中止はより早い段階で認められ、死に結びつくような行為ならば、まさに死が迫った段階に至ってはじめて中止が許されるといえよう。

二  治療行為の中止を求める患者の意思表示が存在し、それは治療行為の中止を行う時点で存在することが必要である。

治療行為の中止が、死が避けられない状態での末期医療の内容・限界について、患者の自己決定を尊重するということに由来することからして、治療行為の中止のためには、それを求める患者の意思表示が存在することが必要であり、しかも、中止を決定し実施する段階でその存在が認められることが必要である。そのためには、中止が具体的に検討される時点で、患者自身の明確な意思表示が存在することがもっとも望ましいことはいうまでもない。そして、そうした意思表示は、患者自身が自己の病状や治療内容、将来の予想される事態等について、十分な情報を得て正確に認識し、真摯な持続的な考慮に基づいて行われることが必要といえるのであり、そのためには、病名告知やいわゆるインフォームド・コンセントの重要性が指摘される。

治療行為の中止を求める患者の意思表示は、右のように、十分な情報と正確な認識に基づいた明確なものとして、治療行為の中止が検討される段階で存在することが望ましく、医師側においてもそのような意思表示を求めて努力がなされるであろうが、しかし現実の医療の現場においては、死が避けられない末期患者にあっては意識さえも明瞭でなく、あるいは意識があったとしても、治療行為の中止の是非について意思表示を行うようなことは少なく、そのため、治療行為の中止が検討される段階で、中止について患者の明確な意思表示が存在しないことがはるかに多く、一方では、家族から治療の中止を求められたり、家族に意向を確認したりすることも少なくないと考えられるのである。こうした現実を踏まえ、今日国民の多くが意味のない治療行為の中止を容認していることや、将来国民の間にいわゆるリビング・ウイルによる意思表示が普及してゆくことを予想し、その有効性を確保することも必要であることなどを考慮すると、中止を検討する段階で患者の明確な意思表示が存在しないときには、患者の推定的意思によることを是認してよいと考えるのである。そこで、この患者の推定的意思の認定についてさらに検討してみる。

まず、患者自身の事前の意思表示がある場合には、それが治療行為の中止が検討される段階での患者の推定的意思を認定するのに有力な証拠となる。事前の文書による意思表示(リビング・ウイル等)あるいは口頭による意思表示は、患者の推定的意思を認定する有力な証拠となる。こうした事前の意思表示も、中止が検討される段階で改めて本人によって再表明されれば、それはその段階での意思表示となることはいうまでもないが、一方、中止についての意思表示は、自己の病状、治療内容、予後等についての十分な情報と正確な認識に基づいてなされる必要があるので、事前の意思表示が、中止が検討されている時点と余りにかけ離れた時点でなされたものであるとか、あるいはその内容が漠然としたものに過ぎないときには、後述する事前の意思表示がない場合と同様、家族の意思表示により補って患者の推定的意思の認定を行う必要があろう。

次に、患者の事前の意思表示が何ら存在しない場合の対応である。この点、弁護人は、安楽死に関連してではあるが、患者の意思を体していると認められる家族の意思でもって足りる旨主張する。そこでこの場合、家族の意思表示から患者の意思を推定することが許されるか、言い換えれば、患者の意思を推定させるに足りる家族の意思表示によることが許されるかが問題となる。先の患者の推定的意思によることを是認した際に指摘した医療の現場での現実や、今日国民の大多数の人が延命医療の中止を容認する意見を有していながら、具体的には事前といえども患者の実際の意思表示がある場合が圧倒的に少ないという現実間のギャップがあること、並びに、具体的に当該措置を中止すべきか否かについては、医師による医学的観点からの適正さの判断がなされ、家族の意思表示があったからといって全ての措置が中止されるわけではないこと、さらに、患者の過去の日常生活上の断片的あるいはエピソード的言動から患者の推定的意思を探ろうとするよりも、むしろ家族の意思表示による方が、はるかに治療行為の中止を検討する段階での患者の意思を推定できるのではないかと思われることなどを考慮すると、家族の意思表示から患者の意思を推定することが許されると考える。

こうした家族の意思表示から患者の意思を推定するには、家族の意思表示がそうした推定をさせるに足りるだけのものでなければならないが、そのためには、意思表示をする家族が、患者の性格、価値観、人生観等について十分に知り、その意思を適確に推定しうる立場にあることが必要であり、さらに患者自身が意思表示をする場合と同様、患者の病状、治療内容、予後等について、十分な情報と正確な認識を持っていることが必要である。そして、患者の立場に立った上での真摯な考慮に基づいた意思表示でなければならない。また、家族の意思表示を判断する医師側においても、患者及び家族との接触や意思疎通に努めることによって、患者自身の病気や治療方針に関する考えや態度、及び患者と家族の関係の程度や密接さなどについて必要な情報を収集し、患者及び家族をよく認識し理解する適確な立場にあることが必要である。このように、家族及び医師側の双方とも適確な立場にあり、かつ双方とも必要な情報を得て十分な理解をして、意思表示をしあるいは判断するときはじめて、家族の意思表示から患者の意思を推定することが許されるのである。この患者の意思の推定においては、疑わしきは生命の維持を利益にとの考えを優先させ、意思の推定に慎重さを欠くことがあってはならないといえる。

なお、右のように、医師側においても認定を行うのに適確な立場にあり、必要な情報を得ておくことが必要とされるのであるが、患者及び家族に関する情報の収集と蓄積、並びに認定を適確に行うためにも、複数の医師及び看護婦等によるチーム医療が大きな役割を果たすといえよう。

三  治療行為の中止の対象となる措置は、薬物投与、化学療法、人工透析、人工呼吸器、輸血、栄養・水分補給など、疾病を治療するための治療措置及び対症療法である治療措置、さらには生命維持のための治療措置など、すべてが対象となってよいと考えられる。しかし、どのような措置を何時どの時点で中止するかは、死期の切迫の程度、当該措置の中止による死期への影響の程度等を考慮して、医学的にもはや無意味であるとの適正さを判断し、自然の死を迎えさせるという目的に沿って決定されるべきである。

第三  安楽死の要件について

末期医療においては患者の苦痛の除去・緩和ということが大きな問題となり、前記のような治療行為の中止がなされつつも、あるいはそれがなされても患者に苦痛があるとき、その苦痛の除去・緩和のための措置が最も求められるところであるが、時としてそうした措置が患者の死に影響を及ぼすことがあり、あるいは苦痛から逃れるため死に致すことを望まれることがあるかもしれない。そこで、いわゆる安楽死の問題が生じるのであり、本件でも被告人は、治療行為を中止した後、家族からの「苦しそうなので、何とかして欲しい。」「早く楽にさせて欲しい。」との言葉を入れて、まずホリゾン及びセレネースを注射して、家族のいう苦痛の除去・緩和の措置を施し、さらにワソラン及びKCLを注射して、同じく家族のいう苦痛から逃れさせる措置として患者を死に致したのであって、外形的には安楽死に当たるとも見えるので、安楽死が許容されるための一般的要件について考察してみる。

回復の見込みがなく死が避けられない状態にある末期患者が、なおも激しい苦痛に苦しむとき、その苦痛を除去・緩和するため死期に影響するような措置をし、さらにはその苦痛から免れさせるため積極的に死を迎えさせる措置を施すことが許されるかということであるが、これは、古くからいわゆる安楽死の問題として議論されてきたところである。しかし、現代医療をめぐる諸問題の中で、生命の質を問い、あるいは自然死、人間らしい尊厳ある死を求める意見が出され、生命及び死に対する国民一般の認識も変化しつつあり、安楽死に関しても新思潮が生まれるようにもうかがわれるのであって、こうした生命及び死に対する国民の認識の変化あるいは将来の状況を見通しつつ、確立された不変なものとして安楽死の一般的許容要件を示すことは、困難なところといわねばならない。そこでここでは、今日の段階において安楽死が許容されるための要件を考察することとする。

一  まず、患者に耐えがたい激しい肉体的苦痛が存在することが必要である。

患者を耐えがたい苦痛から解放しあるいはその苦痛を除去・緩和するという目的のためにこそ、死を迎えさせあるいは死に影響する手段をとるという、安楽死における目的と手段の関係からして、解放のあるいは除去・緩和の対象として、患者に耐えがたい苦痛が存在しなければならない。そして、この苦痛の存在ということは、現に存在するか、または生じることが確実に予想される場合も含まれると解される。

この苦痛について弁護人は、安楽死によって免れることの許される対象としては、肉体的苦痛のみならず精神的苦痛をも考慮すべきであると主張する。なるほど、末期患者には症状としての肉体的苦痛以外に、不安、恐怖、絶望感等による精神的苦痛が存在し、この二つの苦痛は互いに関連し影響し合うということがいわれ、精神的苦痛が末期患者にとって大きな負担となり、それが高まって死を願望することもあり得ることは否定できないが、安楽死の対象となるのは、現段階においてはやはり症状として現れている肉体的苦痛に限られると解すべきであろう。苦痛については客観的な判定、評価は難しいといわれるが、精神的苦痛はなお一層、その有無、程度の評価が一方的な主観的訴えに頼らざるを得ず、客観的な症状として現れる肉体的苦痛に比して、生命の短縮の可否を考える前提とするのは、自殺の容認へとつながり、生命の軽視の危険な坂道へと発展しかねないので、現段階では安楽死の対象からは除かれるべきであると解される。もちろん精神的苦痛は、前記の治療行為の中止に関連しては、患者がそれを望む動機として大きな比重を占めるであろうし、それを理由に治療行為の中止を拒む根拠にはならない。

二  次に、患者について死が避けられず、かつ死期が迫っていることが必要である。

苦痛を除去・緩和するための措置であるが、それが死に影響しあるいは死そのものをもたらすものであるため、苦痛の除去・緩和の利益と生命短縮の不利益との均衡からして、死が避けられず死期が切迫している状況ではじめて、苦痛を除去・緩和するため死をもたらす措置の許容性が問題となり得るといえるのである。

ただ、この死期の切迫性の程度については、後述する安楽死の方法との関係である程度相対的なものといえよう。すなわち、直ちに死を迎えさせる積極的安楽死については、死期の切迫性は高度のものが要求されるが、間接的安楽死については、それよりも低いものでも足りるということがいえよう。

三  さらに、患者の意思表示が必要である。

末期状態にある患者が耐えがたい苦痛にさいなまれるとき、その苦痛に耐えながら生命の存続を望むか、生命の短縮があっても苦痛からの解放を望むか、その選択を患者自身に委ねるべきであるという患者の自己決定権の理論が、安楽死を許容する一つの根拠であるから、安楽死のためには患者の意思表示が必要である。こうした安楽死のための患者の意思表示は、明示のものでなければならないか、あるいは患者の推定的意思によるのでもよいかは、安楽死の方法との関連で後に再度検討する。

四  そこで、安楽死の方法としては、どのような方法が許されるかである。

従来安楽死の方法といわれているものとしては、苦しむのを長引かせないため、延命治療を中止して死期を早める不作為型の消極的安楽死といわれるもの、苦痛を除去・緩和するための措置を取るが、それが同時に死を早める可能性がある治療型の間接的安楽死といわれるもの、苦痛から免れさせるため意図的積極的に死を招く措置をとる積極的安楽死といわれるものがある。このうち消極的安楽死といわれる方法は、前記治療行為の中止の範疇に入る行為で、動機、目的が肉体的苦痛から逃れることにある場合であると解されるので、治療行為の中止としてその許容性を考えれば足りる。

間接的安楽死といわれる方法は、死期の迫った患者がなお激しい肉体的苦痛に苦しむとき、その苦痛の除去・緩和を目的とした行為を、副次的効果として生命を短縮する可能性があるにもかかわらず行うという場合であるが、こうした行為は、主目的が苦痛の除去・緩和にある医学的適正性をもった治療行為の範囲内の行為とみなし得ることと、たとえ生命の短縮の危険があったとしても苦痛の除去を選択するという患者の自己決定権を根拠に、許容されるものと考えられる。

間接的安楽死の場合、前記要件としての患者の意思表示は、明示のものはもとより、この間接的安楽死が客観的に医学的適正性をもった治療行為の範囲内の行為として行われると考えられることから、治療行為の中止のところで述べた患者の推定的意思(家族の意思表示から推定される意思も含む。)でも足りると解される。

積極的安楽死といわれる方法は、苦痛から開放してやるためとはいえ、直接生命を絶つことを目的とするので、その許容性についてはなお慎重に検討を加える。末期医療の実際において医師が苦痛か死かの積極的安楽死の選択を迫られるような場面に直面することがあるとしても、そうした場面は唐突に訪れるということはまずなく、末期患者に対してはその苦痛の除去・緩和のために種々な医療手段を講じ、時には間接的安楽死に当たる行為さえ試みるなど手段を尽くすであろうし、そうした様々な手段を尽くしながらなお耐えがたい苦痛を除くことができずに、最終的な方法として積極的安楽死の選択を迫られることになるものと考えられる。ところで、積極的安楽死が許容されるための要件を示したと解される名古屋高裁昭和三七年一二月二二日判決・高刑集一五巻九号六七四頁は、その要件の一つとして原則として医師の手によることを要求している。そこで、その趣旨を敷衍して、右のような末期医療の実際に合わせて考えると、一つには、前記の肉体的苦痛の存在や死期の切迫性の認定が医師により確実に行われなければならないということであり、さらにより重要なことは、積極的安楽死が行われるには、医師により苦痛の除去・緩和のため容認される医療上の他の手段が尽くされ、他に代替手段がない事態に至っていることが必要であるということである。そうすると、右の名古屋高裁判決の原則として医師の手によるとの要件は、苦痛の除去・緩和のため他に医療上の代替手段がないときという要件に変えられるべきであり、医師による末期患者に対する積極的安楽死が許容されるのは、苦痛の除去・緩和のため他の医療上の代替手段がないときであるといえる。そして、それは、苦痛から免れるため他に代替手段がなく生命を犠牲にすることの選択も許されてよいという緊急避難の法理と、その選択を患者の自己決定に委ねるという自己決定権の理論を根拠に、認められるものといえる。

この積極的安楽死が許されるための患者の自己決定権の行使としての意思表示は、生命の短縮に直結する選択であるだけに、それを行う時点での明示の意思表示が要求され、間接的安楽死の場合と異なり、前記の推定的意思では足りないというべきである。

なお、右の名古屋高裁判決は、医師の手によることを原則としつつ、もっぱら病者の死苦の緩和の目的でなされること、その方法が倫理的にも妥当なものとして認容しうるものであることを、それぞれ要件として挙げているが、末期医療において医師により積極的安楽死が行われる限りでは、もっぱら苦痛除去の目的で、外形的にも治療行為の形態で行われ、方法も、例えばより苦痛の少ないといった、目的に相応しい方法が選択されるのが当然であろうから、特に右の二つを要件として要求する必要はないと解される。

したがって、本件で起訴の対象となっているような医師による末期患者に対する致死行為が、積極的安楽死として許容されるための要件をまとめてみると、〈1〉患者が耐えがたい肉体的苦痛に苦しんでいること、〈2〉患者は死が避けられず、その死期が迫っていること、〈3〉患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないこと、〈4〉生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること、ということになる。

第四  被告人の具体的行為の評価

治療行為の中止及び安楽死の一般的許容要件については、以上述べたとおりであるが、被告人が行った具体的行為について、それらの要件に照らしてどう評価されるべきか検討し、さらに、本件起訴の対象となっている被告人の行為の実質的違法性ないし可罰的違法性あるいは有責性について検討する。

一  点滴、フォーリーカテーテルの取り外し、及びエアウェイの除去について

被告人は、本件患者に対して全面的な治療行為の中止を決定し、その具体的な行為として点滴、フォーリーカテーテルを取り外し、さらにエアウェイを除去している(この三つの行為をまとめて、「点滴等の取り外し」という。)のであるが、こうした点滴等の取り外しが、前述した治療行為の中止の要件を満たすものであったかを検討してみる。

本件患者は、治癒不可能な疾病である多発性骨髄症に罹り、点滴等の取り外しが行われた平成三年四月一三日の当時においては、被告人のみならず同じ主治医であるE医師によってあと一日ないし二日の命であると診断されており、またその日より若干前の日には、M教授及びN助教授によってあと数日の命と診断されており、さらに事後ではあるが、鑑定人Oの鑑定結果によっても、一三日時点で余命はあと一日ないし二日であり、積極的な対症療法を行ったとしても四日ないし五日であったと判断されており、本件患者は死期が迫り、回復不可能な状態にあったと認定してよく、そうすると、患者の客観的な状態としては、治療行為の中止が検討対象となりうる段階にあったといえる。

治療行為の中止に関する患者の意思表示については、本件患者は正確な病名を知らされておらず、病状の進行や予後等について十分な説明を受けておらず、その正確な認識もなかったのであり、点滴等の取り外しが問題となった時点においてはもちろんその事前においても、自己が末期状態になったときの治療行為をいかにするかについて、明確な意思表示をしていなかったものである。

そこで、家族の意思表示、すなわち患者の病状が一段と悪化した四月八日以降治療の中止を要望し申し入れた家族の意思表示をもって、患者の意思を推定してよいかである。本件家族は、長年患者と一緒に生活を共にしてきている妻であり長男であって、患者の性格、価値観、人生観等を十分知り、患者の意思を推定できる立場にあったことは是認でき、また事実の経過で示したとおり、四日前の四月九日から家族は治療行為の中止を望んでそれを口に出し、その後も治療の中止を申し入れ、点滴等の取り外しが行われた当日も二人で治療の中止を強く要望し迫っているのであって、一応、患者の意思を推定できる立場にある家族が、患者の意思を推定できるような意思表示をしているようにも認められるのである。しかしながら、その家族の意思表示の内容をなお吟味してみると、家族自身が患者の病状、特に治療行為の中止の大きな動機となる苦痛の性質・内容について、十分正確に認識していたか疑わしく、最終的に治療の中止を強く要望した四月一三日当時の患者の状態は、すでに意識も疼痛反応もなく、点滴、フォーリーカテーテルについて痛みや苦しみを感じる状態にはなかったにもかかわらず、その状態について、家族は十分な情報を持たず正確に認識していなかったのであり、家族自身が患者の状態について正確な認識をして意思表示をしたものではなかったのである。そうすると、この家族の意思表示をもって患者の意思を推定するに足りるものとはいえない。

一方、そうした家族の意思表示を判断する被告人側についてみると、前記事実の経過にみられるように、被告人が担当医となって患者や家族と接触するようになったのは、二週間足らず前からに過ぎず、しかもその後も、患者の治療に当たり家族と話し合った時間は、点滴等の取り外しを決めた当日を含めても、わずかの限られた時間であって、患者及び家族の両者について意思疎通等によって十分把握し理解していたか疑問であり、結局被告人は、家族の意思表示が患者の意思を推定させるに足りるものであるかどうか判断し得るだけの立場にはいまだなかったと認められる。

したがって、家族の意思表示自体からも、それを判断する被告人の立場からいっても、いまだ患者の推定的意思を認定することはできなかったといえる。

以上のとおりで、治療行為の中止についての患者の明示の意思表示はもちろん、その推定的意思も認定できないのであるから、点滴等の取り外しが、治療行為の中止の対象として適正であったかどうかを検討するまでもなく、それら点滴等の取り外しは、法的許容要件を満たしていなかったと評価できる。

二  ホリゾン及びセレネースの注射について

ホリゾン及びセレネースの注射は、死期を早める可能性があるが、いびきあるいはその原因である深い呼吸を除去・緩和するためなされたものであり、外見的には一種の間接的安楽死のようにうかがえるのである。しかし、その除去・緩和の対象となったのは、いびきあるいはその原因である深い呼吸というのであって、客観的に除去・緩和の対象となるような肉体的苦痛といえるものではなく、また、右の注射は長男の依頼を受けてなされているのであるが、治療行為の中止からさらに進んで、間接的安楽死に当たるような行為をするには、あらためて患者の意思(それは推定的意思でも足りるが)の認定をする必要があるところ、長男の依頼自体が患者の状態について正確な認識を持ったうえなされたものではなく、被告人も前記のとおり、家族の意思表示を判断し得る立場にいまだいなかったのであるから、治療行為の中止の場合と同様、長男の依頼から患者の推定的意思を認定することはできなかったといえる。

したがって、ホリゾン及びセレネースを注射した行為は、いずれにしても間接的安楽死行為に当たるような行為ではなかったと評価できる。

三  ワソラン及びKCLの注射について

ワソラン及びKCLの注射については、その除去・緩和の対象となったいびきあるいはその原因である荒い呼吸は、到底耐えがたい肉体的苦痛とはいえないのみならず、そうしたものの除去・緩和を頼まれ、それを受けて右注射を行った時点では、そもそも患者は意識を失い疼痛反応もなく何ら肉体的苦痛を覚える状態にはなかったのであるから、安楽死の前提となる除去・緩和されるべき肉体的苦痛は存在しなかったのである。したがってまた、肉体的苦痛を除去するため、医療上の他の手段が尽くされたとか、他に代替手段がなく死に致すしか方法がなかったともいえないのである。さらに、積極的安楽死を行うのに必要な患者本人の意思表示が欠けていたことも明白である。

したがって、ワソラン及びKCLを注射して患者を死に致した行為は、いずれにしても積極的安楽死としての許容要件を満たすものではなかったといえる。

四  まとめ

本件起訴の対象となっているワソラン及びKCLを注射して患者を死に致した行為については、積極的安楽死として許容されるための重要な要件である肉体的苦痛及び患者の意思表示が欠けているので、それ自体積極的安楽死として許容されるものではなく、違法性が肯定でき、また、それに至るまでの過程において被告人が行った治療行為の中止やホリゾン及びセレネースの注射の行為が、医療上の行為として法的許容要件を満たすものではなかったので、末期状態にあった本件患者に対して被告人によってとられた一連の行為を含めて全体的に評価しても、本件起訴の対象となっているワソラン及びKCLを注射して患者を死に致した行為は、その違法性が少ないとか、末期患者に対する措置として実質的に違法性がないとかいえず、有責性が微弱ともいえず、可罰的違法性ないし実質的違法性あるいは有責性が欠けるということはない。

第五  公訴棄却の主張について

弁護人は、被告人が公訴事実の行為に及んだのは、患者の長男の強い要請に基づくもので、それは教唆に当たるにもかかわらず、検察官は、教唆者である長男は起訴せず、被告人のみを起訴したのであるが、そうした起訴は公正さを欠き違法というべきであるから、本件起訴については刑事訴訟法三三八条四号により公訴棄却を求める旨主張する。

なるほど、被告人の本件起訴の対象となっている行為が、長男の苦しそうな患者を早く死に致してほしいとの強い要請に基づいて行われたものであることは認められる。しかし、たとえそれが教唆に当たるとしても、患者の家族である長男と医師である被告人との地位・立場の違い、教唆者と実行行為者との責任の相違などを考慮すれば、検察官が被告人のみを起訴したことをもって、公正さを欠き違法であるとは到底いえない。

したがって、弁護人の右主張は理由がない。

(量刑の理由)

今日終末医療のあり方をめぐってさまざまな議論がなされ、それを取り巻く状況も変化しつつある。そうした中で、本件は、スタッフと設備を整えた水準の高い大規模病院において、不治の病気に冒された末期患者の治療に当たっていた医師が、家族に懇願され要請されて、死期の迫った患者を人為的に息を引き取らせ死に致した事件であり、末期医療の現場において医師によって末期患者に対して行われた事件として、注目を引いた事件であった。しかし、審理の結果は、先に示したとおりであり、被告人が薬剤を注射して患者に人為的に息を引き取らせた行為は、安楽死と評価できるものではなく、医師の行為として許容される範囲をはみ出したものであった。

したがって、被告人の行為は余命わずかとはいえ患者の生命を違法に絶ったものであり、基本的には生命の保護の法益を侵したものとして、刑事責任を負わなければならないのである。ただ、その責任非難の程度を判断するについては、被告人の行為が、末期医療に従事する者のその現場における行為として行われているので、そうした末期医療の中での行為という観点からの検討をも加えることが必要と考えられるのである。

そこで、被告人の行為を末期医療における行為という観点から評価するとき、そうした誤った行為が行われたことによる影響として、末期医療に対する不信、不安を招きかねないということが考慮される。

すなわち、医療に対する信頼の基盤の一つが、生命の維持・保護が保障され優先されるということにあり、それは人の生命や死との関わりの多い末期医療においても変わらないはずであるが、もし誤った生命の短縮が行われるということになれば、末期医療に対する信頼は損なわれることになる。また、末期医療を見る一般国民に、末期医療においては消えゆく命の軽視が行われはしないかとの不安を与えかねないおそれがある。例えば意識を失いわずかな命しか残されていない患者について、その命を軽くみるような心の緩みが末期医療の現実の中で生まれはしないか、という不安をもたらしかねないのである。さらに、末期医療における患者の意思の尊重がどの程度行われるかという不安感を、同じく一般国民に与えかねないおそれがある。なるほど、本判決も、治療行為の中止等については家族の意思表示による患者の意思の推定を認めるのであるが、そのためには十分な条件を満たしていることが必要であり、もしその認定が慎重さを欠きあいまい不十分なままなされるのならば、患者の意思はないがしろにされ、家族の都合で患者の生命は左右されるとの批判がなされることになろう。このように、被告人の行為のごとく末期患者に対する誤った処置は、末期医療に対して不信と不安を招きかねないと評価されてもやむをえないといえるのである。

他方、末期医療の現場において被告人が誤った行為に出たことについては、その末期医療の現実の状況に関連して酌量すべき事情が存在する。

まず、末期医療についての体制の不備、さらに末期医療におけるチーム医療の機能の不十分さが認められることである。被告人が勤務していた病院は、今日の国内において高い水準の治療体制を整えた病院であったのであるが、こと末期医療のための体制作りないし環境整備という点では欠けるものがあり、末期患者やその家族に対するいわゆるケアのための体制は十分整えられていなかったことは否定できない。それに加えて、本件当時スタッフの異動等により治療体制であるチーム医療に間隙が生じて十分機能せず、一人の担当医に重荷が負わされるような事情が存したことも認められるのである。このように治療中心の医療体制や環境の中にあって、一方では複数の重症の患者の治療に当たりつつ、他方では末期患者やその家族に対応していかなければならないということは、一人の医師にとって大きな負担であり、末期患者やその家族と意思疎通を図り相互理解と信頼関係を築くことはなかなか困難なことといえよう。こうして、本件は、治療を中心とした医療体制の中の狭間ともいえる末期医療の現場において起きた事件といえるのであり、その点で被告人のために酌むべき事情があるといえる。

また、被告人が本件行為に出るについては、家族の懇願と強い要請があったのであり、それが、被告人が本件行為に及んだ大きな要因であり動機であった。末期医療の実際の場においては、患者の家族の意向が大きな影響を持ち、医師の医療活動を左右することがあり、家族の意思が、医師の行為に適法性を与えることもあるのである。このように家族の意思が、医療特に末期医療の現場において大きな影響をもつ現実を考慮すると、それが医師の行為に適法性を付与するまでに至らない場合であっても、医師の行為の動機等として、情状として考慮されてよいといえる。

次に、被告人が本件行為に及ぶについては、末期医療の現場におかれた者として戸惑いと苦悩があったことが挙げられる。近年末期患者やその家族に対するいわゆるケアのための末期医療の重要性がいわれている。しかし、末期医療そのものが形成期にあり、その方法もいまだ確立したものとして普及しておらず、一方では末期患者に対する医師の使命の再検討や無駄な延命治療の中止あるいは患者の自己決定権などがいわれ、末期患者やその家族に対してどう対処するか医療現場において戸惑いと苦悩が存在することは事実である。本件でも被告人は、末期医療殊に末期患者や家族へのケアについての十分な知識と経験があったわけではなく、治療行為の中止や早く息を引き取らせてくれとの要求に初めて出会って戸惑い、その心情を酌み取ろうとして迷い苦悩は深まり、家族の要請を拒みきれない心境になって本件行為に及んだのであり、そこには、末期患者や家族へのケアについて知識と経験が乏しく、末期医療について確信が持てないまま戸惑いかつ苦悩する医師の姿があるのである。このような末期医療の現場における一般的状況が存在することは、被告人が本件行為に及ぶに至った一因として情状として考慮すべきであろう。

右のように、末期医療の中における行為という観点から被告人の行為を見た場合、非難すべき面及び斟酌すべき面の各事情がそれぞれ挙げられる。そしてそれ以外に、被告人が本件を原因に大学を懲戒解雇となり、以後自らも医師として活動することを慎んで本件について熟思し、一方で相当期間被告人としての立場に置かれたのであり、相当な社会的制裁を受けているといえること、患者の家族においても被告人に対して何ら悪感情を抱くことなく、刑事処分も望まない意思を有していることなど、被告人のために酌むべき事情が存在する。

以上の諸事情及びその他の情状を考慮して、量刑した次第である。

(求刑 懲役三年)

(裁判長裁判官 松浦繁 裁判官 廣瀬健二 裁判官 田尻克已)

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